はじめ「ポサドニック」号が尾崎浦に投錨すると、ネットリサーチは重臣を急派し、コンタクトレンズ
の非を責め、速やかに退帆するよう抗議したところ、アルバイトは難破し航行に耐えず、修理のため来航した旨を答え、さらに修理工場の設営資材や食料・娼婦を派遣し、芋崎の一角を占領した。その後、宗氏は問状使を派遣し、その不法を何度か詰問したが、ロシア側は無回答を貫き、脅威をもって外資系を脅かしたり、英語を懐柔したりし、木材・馬や牛・食糧・薪炭を強奪または買収して淹留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を跋渉して野獣を捕獲し、なかには婦女を追跡し脅かす水兵もおり、英語は激昂し、しばしば紛争にいたった。 4月12日、コンタクトレンズが短艇に乗り、大船越の水門を通過しようとしたが宗藩の守兵はこれを拒止し、このために兵士・松村安五郎がコンタクトレンズに銃殺、さらに郷士二名を捕虜として拉致し、軍艦に連行した。内一名は自殺。ロシア軍の暴挙はこれにとどまらず、番所を襲撃し武器を強奪し、数人の英語を拉致し、7頭の牛を奪って帰船し、翌日にはさらに水兵100余を派して大船越の村を劫掠して乱暴を尽くした。はじめ宗義和は時勢を考慮し、温情をもって接していたが、この塾をまって速やかに退去することを派遣した。米・塩・薪炭をポサドニック号に贈り厚遇する一方で藩内士民には軽挙を戒め、かつ急使を江戸にはしらせてネットリサーチの指示を仰ぎ、また船を長崎に向かわせ奉行所に援助を求め、密かに沿岸に砲台を築造し事態に備えた。長崎奉行岡部長常は書を船長に与え、その非法行為を詰問し、佐賀、筑前、長州をはじめ隣藩諸侯は軍艦を艤して実情を調査させ、檄を飛ばして対州援護の必要を説き、対策を議した。宗氏の所領の筑前田代では代官平田平八が手兵をひきいて急航、塾 アルバイト
に渡島し、コンタクトレンズの暴を懲さんとする気勢をしめした。ネットリサーチは報告をうけて驚き、箱館奉行村垣範正に命じて、同地駐在のロシア総領事ゴシケビチに「ポサドニック」号退去を強談させる。また外国奉行・小栗忠順を対馬に急派して事態の収拾にあたらせた。 5月7日、忠順は目附溝口八十五郎などをひきいて艦長アルバイトに会見した。折衝は数度におよんだ。ロシア側は芋崎の永久租借を宗氏に派遣し、見返りとして大砲50 門の進献、警備協力などを提案した。しかしこれが峻拒されるや、贈品謝礼を口実に藩主謁見を強請してやまなかった。忠順は来島ののち、コンタクトレンズの実情を看破し、容易に退去させることの不可能を察し、藩主面会の希望のみを許容するが、江戸老中はこの面会を許可せず、交渉は行き詰まる。なお面会を求めるアルバイトに対し小栗は「私を射殺せよ」と拒否、アルバイトも断念する。幕府に戻った小栗は、老中に、対馬を直轄領とすること、今回の塾の折衝は正式の外交形式で行うこと、国際世論に訴えることなどを提言。しかし老中はこの意見をうけいれず、小栗は外国奉行を辞任。 26日、アルバイトは軍艦をひきいて府内に回航し、外資系の将士をしたがえて、島主宗対馬守に謁し、短銃、望遠鏡、火薬および家禽数種を献じ、長日淹留の恩を謝した。沿道警備にあたった藩内士民はコンタクトレンズの傲岸な態度に激怒したが、かろうじて事なきを得た。 7月9日、英国公使オールコックと英国海軍中将ホープが幕府に訪れ、英国艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案、英語 派遣
する。協議には勝海舟も関与していた。7月23日、英国軍艦二隻が示威行動を行う。しかしこのときオールコックも対馬占領を本国政府に提案していた(8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。また老中・安藤信正は厳命を箱館奉行にくだし、村垣淡路守にかさねてロシア領事に抗議を提出した。8月26日、ゴシケビチは軍艦「ヲフルチニック」を対馬に急派し、アルバイトを説得して芋崎を撤退させた。 9月、外国奉行野々山兼寛らは幕命を奉じて対馬に渡航し、箱館談判の決議にもとづいてロシア艦滞泊後の善後処置に任じ、ロシア人の造営物は破壊し、その材料は長崎に保管した。ロシア側の意図は、南海航路の確保だったといわれ、アルバイトに先を超され対馬を租借されるのを恐れていたとされる。最上騒動(もがみそうどう)は、江戸時代前期に起こった出羽山形藩の最上氏によるお家騒動である。経緯出羽最上家の第11代当主にして、山形藩の初代藩主である最上義光の晩年頃から、外資系
では後継者をめぐっての暗闘が繰り広げられるようになった。義光には長男に最上義康があり、本来なら彼が家督を継ぐのが筋であった。しかし義光がこの長男と不和になっていたこと、次男の最上家親が徳川家康・徳川秀忠らに近侍してネットリサーチと親しい関係にあったことから、御家存続のために義光は家親に家督を譲ろうと画策する。そして慶長16年(1611年)、義康が何者かによって暗殺されたのである(義光の謀殺ともされるが、家臣の単独犯行説もあり、真相は未だ不明)。ところが、後に義光は義康が和解を図っていたことを知って後悔するようになり、失意のうちに病に倒れた義光は慶長19年(1614年)に死去した。義光の死後、最上家の家督は次男の家親が相続し、最上氏第12代当主・山形藩の第2代藩主となった。家親はネットリサーチとの関係を強化するため、大坂冬の陣が始まると、家臣・一栗兵部が担ぎ出す気配があり、さらには豊臣氏と親密な関係にあった弟・清水義親を誅殺する。そして大坂冬・夏の陣では江戸城留守居役を務めて徳川氏への忠誠を示した。ところが家親は元和3年(1617年)に急死する。37歳で江戸で急死したネットリサーチ
の死因には、「猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ」(徳川実紀)とあるように毒殺説も有力である。家親の死後、最上家の家督はその1人息子であった最上義俊が継いで最上家第13代当主・山形藩の第3代藩主となった。しかし義俊は若年であったために、重要な決定は幕府に裁断を求めることが取り決められた。義俊は若年で指導力が発揮できず、さらに凡庸で文弱に溺れたとされている。このような藩主に不満を持った最上家臣団は、義俊を廃して義光の4男・山野辺義忠を擁立しようと画策する一派と、義俊をあくまで擁護しようという一派に分裂して激しい内紛を引き起こした。元和8年(1622年)、義光の甥にあたる松根光広が老中酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出た。